京都地方裁判所 昭和41年(ワ)767号 判決 1971年5月14日
原告
有限会社丸芳商事
代理人
小林昭
被告
柏井道三
代理人
山崎一雄
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一、当事者双方の求めた裁判
一、原告会社訴訟代理人
(主位的請求)
被告は原告に対し別紙目録記載の家屋を明け渡し、昭和四一年八月一二日から右明渡しずみまで一か月金二万七、八〇〇円の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。との判決と仮執行の宣言。
(予備的請求)
被告は原告に対し金一〇〇〇万円と引換えに別紙目録記載の家屋を明け渡せ。との判決と仮執行の宣言。
二、被告訴訟代理人
原告の請求を棄却する。との判決、なお、敗訴の場合担保を条件とする仮執行免脱の宣言。
第二、当事者双方の主張
一、原告会社の本件請求の原因
(一) 別紙目録記載の家屋は原告会社の所有であるが、原告会社はこれを被告に対し、賃料を一か月金二万七、八〇〇円として期限の定をしないで賃貸した。
(二) 原告会社は、昭和四一年二月一一日被告に対し、本件賃貸借契約の解約の申入れをしたが、右意思表示は翌一二日被告に到達した。
(三) 原告会社が、右解約の申入れをするについて、次のような正当事由がある。
(1) 原告会社は、本件家屋を改築又は改造して住宅としたうえ、原告会社及び原告会社と姉妹会社の関係にある訴外株式会社島岡製作所の従業員宿舎に提供し、差し当つては右訴外会社の材木置場として本件家屋を自ら使用する必要がある。
(2) 被告は本件家屋において染色加工業を営む者であるが、被告の営む染色加工用糊の悪臭、被告の捨てる糊、塵芥等に発生する蠅、夜業の為の騒音、業務用プロパンガスの管理不充分等のため、住宅地である本件家屋附近住民に与える公害が多く、このため原告会社は、附近住民から被告工場である本件家屋から、被告の立退移転を求める要望を受けているので、原告会社としては、被告から本件家屋の明渡しを得て、本件家屋を改築ないし改造して住宅として附近環境に合致させる必要がある。
(四) このようなわけで原告会社のした前記解約の申入れは有効であり、本件家屋の賃貸借契約は、解約申入後六ケ月を経過した昭和四一年八月一一日をもつて終了した。そこで、原告会社は被告に対して、本件家屋の明渡しを求めるとともに、解約の効果の発生した日の翌日である昭和四一年八月一二日から明渡しずみまで一か月金二万七、八〇〇円の割合による賃料相当損害金の支払いを求める。
(五) 仮に、右主張が認められないとしても、原告会社は昭和四六年四月一一日の本件口頭弁論期日において、被告に対し本件賃貸借契約の解約の申入れをする。即ち、被告が本件家屋の明渡しによつて被る苦痛は全く金銭上の問題であるので、原告会社は被告に対し、原告会社が金一〇〇〇万円の立退料を被告に支払うのと引換えに本件家屋の明渡しを求める。
二、被告の請求原因に対する認否
(一) 請求原因(一)、(二)は、いずれも認める。
(二) 請求原因(三)、(1)、(2)に主張する原告会社の正当事由を否認する。
第三、証拠<省略>
理由
一原告会社主張の本件請求の原因中(一)(二)の事実は当事者間に争いがない。
二そこで、原告会社主張の解約の申入れについて正当事由があつたかどうかについて判断する。
(一) 原告会社が本件家屋を自ら使用する必要があるとの点については、本件に顕われた全証拠によつても認められない。ただ、<証拠>によると、原告会社は、被告から本件家屋の明渡しが得られたときには、原告会社の代表者が代表取締役を兼ねている訴外株式会社島岡製材所の木材置場に使用することが予定されているが、それも緊急な必要性に迫られているわけのものではないことが認められる。
(二) 次に、被告が本件家屋附近の住民に悪臭、騒音の影響を与えているので、原告会社は附近住民から立退きの要望を受けているとの点について判断する。
(1) 建物の賃借人は、賃貸人に対し、賃貸借契約が終了するまで、賃借物を善良な管理者の注意義務をもつて保管する義務がある(民法四〇〇条)。民法が予定しているこの保管義務の内容は、賃借物の用法による使用収益に伴なう滅失毀損を最少限にとどめ、賃借物自体の価値を維持することである。そうして、この義務は、直接賃貸人に対して負うものであることは、市民法秩序上当然である。
この理は、工場建物の賃貸借においても異なるものではない。
ところで、本件のように、工場建物の賃借人がその工場を使用して作業中、悪臭や騒音を出し、附近の住民に影響を与えている場合、その影響自体に着目したとき、それは、加害者である工場経営者(賃借人)と被害者である附近住民の法律関係として把握するしかない。このような悪臭や騒音が賃借物の前記保管義務に違反したときに、はじめて、賃貸人と賃借人との間の契約違反の問題になる。もつとも、この保管義務違反が、借家法一条の二にいう正当事由に当るかどうかという法律問題があるが、それを肯定したうえで解釈を進める。従つて工場賃借人が、工場の悪臭や騒音によつて附近住民に影響を与えていることから、直ちにこのことだけで、賃貸人は正当事由による賃貸借契約解約の申入れを賃借人にすることはできないと解するのが相当である。そう解さないと、賃借人は、悪臭、騒音を出したことの一事によつて賃貸借契約が解約され、生活上、経営上の基盤を一挙に失なうのに対し、賃貸人は、賃借人に義務違反がなく信頼関係に別段破壊が生じておらないのに、賃貸物の返還が得られる結果になるが、この結論は、権衡上、到底首肯できない。工場の悪臭、騒音自体は、附近住民との間で解釈されるべき問題にすぎない。
(2) この視点に立つて本件を観察すると、原告会社は、正当事由として、被告の賃借中の本件家屋から、悪臭、騒音が出て附近の住民に影響を与えていると主張しているにすぎず、これが賃借人である被告の本件家屋に対する保管義務に違反しているとは主張していない。
そうすると、原告会社のこの点の主張は、主張自体失当といわなければならない。
そればかりか、<証拠>によると次のことが認められる。すなわち、原告会社が昭和三七年に本件家屋を買い受けたときには、被告はすでに以前から本件家屋を染工場として賃借していた。原告会社は、本件家屋を買い受けて賃貸人の地位を承継したが、本件家屋の附近に家屋が建てられたのは、その後のことである。被告は、本件家屋を染色加工工場として使用しているので、染色用ののりを溝に洗い流すことが多く、それが本件家屋の外の水路に流れ込み、それが十分流れないため悪臭を発する結果になつている、附近の住民は、その水路に貯留したのりの固りを、一週間に一度箒で清掃している。被告の工場は午前七時ごろから操業を始め、午後九時ごろまで操業しているが、熱風乾燥装置用の二台の送風機を回すため、モーターによる騒音を伴うものの、それは特に不快音という程のものではない。附近の住民は、これら悪臭騒音について格別、監督官庁に対し被害を申告してその取締を促すようなことをしたことはなく、原告会社に対する陳情書(甲第一号証)は、原告会社代表者島岡久栄の発議により附近住民の署名を集めたものである。以上の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。
右認定の事実関係からすると、被告が本件家屋から出す悪臭、騒音の影響は、附近住民に耐えられない程度のものではなく、むしろ、そのような影響は無い方が望ましいと附近住民が感じているという程度でしかない。とすればこの悪臭や騒音の程度をもつて、原告会社が本件賃貸借契約の解約を申し入れるについての正当事由にすることは、到底できない。
(三) 以上の次第であるから、原告会社主張の主位的請求は排斥を免れない。
(四) 原告会社主張の予備的主張について判断する。
移転料の提供それ自体が正当事由になるわけではなく、原告会社主張の正当事由の補強として加え、正当事由の判断をすることになるが、すでに説示したとおり、原告会社には、本件家屋を自ら使用する必要が全く認められないばかりか、被告が本件家屋から出す悪臭、騒音の附近住民に対する影響も、全く正当事由にならないのであるから、移転料を提供して補強するにも、補強されるべき原告会社側の事情は皆無に等しい。このような場合には移転料の提供はなんら補強としての役割を果さないものであるから、原告会社の予備的主張もこの点で排斥するほかはない。
三以上により、原告会社の本件請求を失当として棄却することとし、民訴法八九条に従い主文のとおり判決するる。(古崎慶長)